2022年5月の詩

かくしもの

立ち会った母が言うには
かれは骨が丈夫だったから
なかなか焼き終わらなかったのだという
壺の蓋を開けると
二年前埋め立てられた公園の
砂場と同じ音がした

薄い皮膚と毛皮の下に
かくされていたものたち
かれにしてはかくすのが上手だったから
白い と言ってしまうには
十六年分の生活が沈着しているその色を
私は見たことがなかった

が 私は知っていた
かれと町を歩くとき
足元をすり抜けていく尾骨も
かれを抱き上げたとき
空を蹴って伸びる脛骨も

かれが擦り寄ってきたとき
手のひらにすっかり収まる頭骨も
かれの背中を撫でたとき
くりくりと手応えをかえす脊柱も
(知っていた 私は)

たべもののなかでも
牛乳とチーズをひときわ好んでいたのは
もしや そういうわけだったのか

浅慮な人間である私は
そこでようやく気がついたのだ







犬が亡くなったと連絡が来たのはことしの3月の日曜日の午前2時だった。前日、久しぶりに外出した疲れでうっかり部屋の電気をつけたまま寝落ちてしまい、そこから目覚めてふとiPhoneの画面を見たら父からLINEが来ていた。そっか、と悲しみなどよりもなにかが腑に落ちたような思いがして(ちょうど前日、犬がなにも食べなくなったと妹から聞いていた)、部屋の電気を消して、そのあと特に寝るのに苦労した覚えはないからたぶんそれほどかからずにまた眠ったのだろう。ただ、犬にとって、かれが生きていた時間のうち、いい思いをしている時間がなるべく多かったらいいなと思った記憶はある。ずいぶん無責任な言い方だと思うのだけれど、数年前に実家を出て、年に何度か帰省する以外に犬にかかわらなくなった私は、無責任にそう祈りたかった。たとえ犬が生きていたとしても、その答えを聞いて確かめることはできない。
犬は食べることを熱烈に愛していた。私がかれの声をはじめて聞いたのは、食べかけのおやつを取り上げられたことにかれが抗議した時だった。最晩年を除けば、かれは自分に供されたたべものを──無骨な見た目の体重管理用ドッグフードだろうと、大型ペットショップのショーケースに鎮座していた誕生日ケーキだろうと──、最早情熱的にすら見える態度を示しながら口にしていた。なかでも乳製品はかれの大好物で、かれ専用の食器に牛乳を注ぐ音を聞きつければ(水はかれの寝床に備えつけられた吸水器から飲む習慣だったから、その金属製の食器に液体を注ぐ音がすれば、それはつまり牛乳なのだとわかってしまうのだ)ものすごい勢いで駆けつけてきて台所を跳ね回った。実家の食糧棚には、チーズ味の犬用おやつが常にストックされていた。